徒然雑記帖

2017年4月の記事一覧

575770 → 今は春べと 咲くやこの花♪

本日4月20日、午前9時37分現在のアクセス件数は、575770 

 


最初の5桁、57577とは勿論、日本古来の三十一文字(みそひともじ)である和歌のことです。その後の0をどう解釈(こじづけるか)で悩みました。

0番目と捉えると、百人一首競技大会などで試合開始を告げる歌と考えてもいいのかな・・・と思いました。その歌は、百人一首には収められていませんが、スポーツの試合で開始を告げるホイッスルのように、百人一首競技の開始前に必ず詠まれるこの歌です。1

 

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

 

【現代語訳】難波津(なにはづ)に、咲いたよこの花が。冬の間は籠っていて、今はもう春になったというわけで、咲いたよこの花が。

 

【解説】難波津とは、難波の港。難波は大阪市及びその付近の古称。第16代仁徳天皇2が高津宮を置いた所です。この歌は、仁徳天皇が即位される時に、朝鮮(百済)からの渡来人の王仁博士(わにはかせ:生没年未詳)が、梅の花に添えて歌ったとされる歌です。陛下の治世が末永く続きますようにという願いを込めた、今でいう「君が代」みたいな祝福の歌です。

 

技巧などなく、見たままを素直に歌った和歌です。皆さん、実際に花が咲き乱れる様が目に浮かびますか?そういうことで、試合の開始時など印象的な場面で詠まれると、華やかな雰囲気が醸し出されますし、そういう効果を狙って詠まれているのかもしれません。

数年前、広瀬すずさんが主演して話題になった競技カルタの映画「ちはやふる」でもこの歌が詠まれるシーンが何度も出てきましたので、そう言えば・・・と記憶にある人もいるはずです。

 

日本が世界に誇る文化遺産ともいえる百人一首、小中学校でいくつか覚えたことがある人も多いことでしょうが、その成立事情は知っていますか?

平安末期~鎌倉初期の大歌人である藤原定家(ていかorさだいえ:11621241)が、友人から「100首の和歌を色紙にしてふすまに飾りたい。いい歌チョイスしてよ!」と頼まれ、飛鳥時代の第38代天智天皇から鎌倉時代の第84代順徳院まで、およそ450年間の中から100人の歌人の優れた和歌を一首ずつセレクトしたものです。まさに「藤原定家セレクション」といったところです。(このような異なる作者による詩文などの作品を集めたものを「アンソロジー(anthology)」と言いますが、これ、覚えておきたい言葉です)

文暦2年(1235年)の5月27日に、百人一首を完成させて、小倉山荘の障子に書写した和歌百首を貼ったという記録が、明月記(定家がつけていた日記)に残っていることから、5月27日は「百人一首の日」とされています。

今、巷(ちまた)では、俳句や川柳がとても盛んです。「良い句」と読める4月19日(昨日です!)や、5,7の並びにかこつけた5月7日に、年に1度の句会や総会などを行い、会員の親睦を深めている団体が多いようです。それにしても、575770とは、何とも堂々とした数字!これが達成された日は、和歌を話題にするしかないと考えていました。

実は・・・、4月当初の1日当たりの平均アクセス件数700件から見積もって、「百人一首の日」である5月27日前後にアクセス件数が575770になるのではという淡い期待のもと、この記事の構想を考えていました。そしたら、4月第2週目あたりから1日当たり1,500件とか2,000件、昨日などは4,000件を超えるアクセスを頂く日が続き、予想が大きく外れて早まってしまい、嬉しい悲鳴というか、ちょっと慌てて記事を作ったところでした。

 

ところで、定家の時代から900年近い歳月が流れ、三十一文字を現代では短歌と呼ぶようになり、歌の詠みぶりは随分変わってしまいました。私は初任校(高校教師になって一番最初に勤めた学校)で百人一首部の顧問を担当したことが縁で、すっかり和歌のとりこになってしまったのですが、和歌の普遍性についてつくづく考えることがあります。

一つは、歌は喜びを高らかに歌い上げることも多々ありますが、かなしみの器(うつわ)として用いられることが多いということです。そしてもう一つは、かなしむ人を美しいと思う日本人の感性です。歌の中に秘められた思いを想像し、共感して涙をもよおす心、これは感性がなせるものでしょうが、これもまた美しいと思っています。

 

手元のシラバスによると、本校では2年生の3学期の2月頃に国語(国語総合)で百人一首を学習するようです。「和歌」は古文ですから、現代に生きる私たちにはとっつきにくいところがあるのは否めません。でも考えてみてください。わずか三十一文字ですが、その中にあらゆる感情を打ち込んでくる力業ですので、そこに含まれる情報量はもの凄く多いです。ちょっと気のきいた人なら一つの和歌を題材にして小説がかけてしまう位の情報量といってもいいと思います。一つ一つが短編小説と言ってすら過言でありません。歌の中に秘められた思いを想像するうちに、好きな1首に出会えるように願っているところです。百人一首の授業をどうぞお楽しみに!

そして・・・、本校の三綱領の中に「好学」というのがあります。和歌と短歌の違い、俳句と川柳の違いなども、ぜひ興味をもって調べて知的好奇心を満たしてもらえればなお嬉しいです。          【校長】

 

1競技百人一首では、競技のはじめに「序歌」という百首のいずれにも属さない特別枠の歌を詠みます。地方によって何の歌を詠むかは色々ありますが、競技百人一首の段位や公式ルールを仕切っている全日本かるた協会は、この「難波津の歌」を序歌に定めています。

 

2仁徳天皇は、歴史上まれに見るほど、徳のある君主であり、その治世は何と87年間も続いたと「日本書紀」に記されています。特に、「かまどの煙」の逸話が有名です。

ある時仁徳天皇が高台から、民の家々を見ておられました。

しかし、かまどから煙が上がっている家がありませんでした。民が貧しい証拠です。

「これは租税が高すぎるのじゃ」

仁徳天皇は、3年間租税の徴収をやめ、労役を課すことをやめ、その間は宮殿の茅葺(かやぶき)も葺(ふ)きなおさず、雨漏りがしてもたらいで受けて、しのがれました。

3年後、ふたたび高台にのぼった仁徳天皇は、家々から元気よく煙が立ち上っているのを目にされます。「これでよし!」こうして3年ぶりに租税と労役をもとに戻しました。

このように徳の高い天皇のもとで国は栄えたということです。よって仁徳天皇のことを「聖帝(ひじりのみかど)」と呼ぶこともあります。「難波津の歌」は、そんな徳の高い仁徳天皇の御世が末永く続きますようにと、祝福をこめた寿(ことほ)ぎの歌です。

ところで、仁徳天皇のお墓を知っていますか?私が小学生の頃、大阪府堺市にある右の写真の前方後円墳を「仁徳天皇陵」と習いました。今は、そうでないようですね。

堺市には3つの天皇陵が存在します。埋葬されている埴輪をよく調べてみたところ、学術上ここが仁徳天皇陵であると確定することは不可能であることにより、堺市大仙町に所在する古墳ということで、「大仙陵古墳」と称されているようです。自宅にあった「もう一度読む山川日本史」には、この古墳について「大仙陵古墳(伝仁徳陵)」と表記され、職員室にあった山川出版社の「高校日本史B」の教科書では、「大仙陵古墳(仁徳天皇陵)」と記載されていました。新しい史実に基づいて教科書が書き換えられるのはこれまでもあった話です。でもこの写真はきっと脳裏に焼き付いていることでしょう。

日本全国に20万基(古墳は1基、2基・・・と数えます)以上はあるといわれる古墳のなかで、日本最大の古墳であり、エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓の一つに数えられています。上から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されているようです。

労役を課すことを中止するほど徳のある仁徳天皇が、そんなに歳月がかかる土木工事を民にさせたとは・・・と突っ込みを入れたくなる人もきっといるのでは?