徒然雑記帖
アクセス数682962 → 鵯(ひよどり)越えの戦い
長い1学期が終わりました。明日から夏休みということで、生徒の皆さん方、心なしかウキウキしているようにも見えます。
そのような中、1学期最後の生徒会ボランティアとして、人吉駅と本校を繋ぐ「ひよどり越え」*1の清掃活動が行われました。この坂道は、右の写真のように約200人の列車通学生が通学路として使っています。
私も生徒たちと一緒に汗を流し、校長室に戻り、ホッとしながら何気にHPを見たら、午後2時3分現在のアクセス件数は、682962
この数字にとても閃(ひらめ)くところがあり、数字の並びをそのままにして、加減乗除の記号を入れてみたくなりました。
6!+82-96÷2=1184 (今回は偶然にいとも簡単にできました!)
【注】 中学生の皆さんへ
もう何度も書いていますが、式の中にある"!"は「階乗」または「ファクトリアル」と読み、詳しいことは高校の数学で学習します。ここに出てくる6!なら、6×5×4×3×2×1を計算します。このようにn!なら、n×(n-1)×…×3×2×1の自然数の積を計算します。
「ひよどり越え」と1184の関係
ところで、生徒の皆さん、「ひよどり(鵯)*2」は左の写真のような日本全国に生息する身近な野鳥ですが、見たことがありますか?
私、赴任直後からなぜこの坂を「ひよどり越え」というのか、ひよどりが坂の上空を飛んでいる様子を想像しながら疑問に思っていました。
というのも、これは平家物語の中に「鵯越えの戦い」という名で描かれた、今から835年前、即ち1184年*3に実際に行われた源平合戦の一コマだからです。(以下、歴史に興味がない人も読んでもらえれば嬉しいです!)
鵯越えの戦いとは
寿永3年(1184年)2月7日、源平の戦いにおけるハイライトの一つ「一ノ谷の戦い」が始まりました。職員室にあった山川の日本史の教科書には「平氏追討軍の義経は、摂津の一ノ谷で大勝し、さらに平氏を西国に追い詰めていった」というようにさらっと書いてありましたが、私が高校のとき習った日本史の教科書には多分詳しく載っていたのでしょう。劣勢になった平氏が壇ノ浦の戦いで滅びる過程の戦(いくさ)の一つとして「一ノ谷の戦い」を詳しく教わった覚えがあります。「一ノ谷の戦い」は、源義経(みなもとのよしつね)が「鵯越の逆落とし」を行った戦いとして覚えています。
今回この記事を書くに当たり改めて調べてみると、一ノ谷は兵庫県神戸市須磨区に所在し、その古戦場跡は須磨浦(すまうら)公園として整備されていることが分かりました。また、鵯越町も隣の兵庫区内に実在し、鵯越小学校、神戸電鉄鵯越駅のようにその名が今も残っています。
それでは、どのような戦いだったかを、この地に例えて簡単に説明します。
本校や隣の人吉西小学校が所在する村山台地(高台)から人吉市街を見下ろし、「ひよどり越え」も写っている左の写真をご覧いただきながら、村山台地に源氏軍が陣取り、下手にあたる人吉駅当たりに平家軍が陣取ってにらみ合っている構図を想像してみてください。人吉駅の少し先には球磨川がありますが、そこは海(瀬戸内海)だと思わなければなりません。
台地から見下ろすと断崖は急坂で、馬に乗ったまま平家軍を攻めることは無理そうです。そこで源氏軍を率いる源義経は、どのような戦術をとったのか・・・。
義経は地元の猟師に「鹿が通れる道はありますが、馬はちょっと・・・(無理)」と聞き、「鹿が通れるなら馬が行けないわけがない!同じ四足(よつあし)ではないか。突撃!!」と号令をかけ、義経のあとには三千騎が続き、人馬もろとも怒濤(どとう)の勢いで急斜面を一気に駆け下がり、油断をしていた平家軍の背後をつき源氏軍を勝利に導いたのです。こんな会話が聞こえてきそうです。
「義経様!どうされますか?」
「この崖を・・・降りる」
「!!??」
「この崖を一気にかけおり、奇襲をもって平氏軍を打ち倒す!」
「義経様!そ…、それはあまりにも無謀では。この急斜面、馬で降りれるものでしょうか!?」
「無謀ではないぞよ。鹿がこの崖を降りていると聞いた。鹿が降りれるのに馬が降りれぬわけはない。ゆくぞ!」
「よ…、よしつねさ・・・」
「いざ!皆の者!ゆけ~い!!」
「うおおおおおお!!! バカッバカッ バカッ バカッ !!!!」
これは、私が高校の時の日本史の先生の口調を思い出しながらテープ起こしをしたものです。登場人物の声色を使い分け、身振り手振り交えて面白おかしく漫才のように演じてくれる先生でした。最後に口癖のように「きっとそんな会話があったのかもしれません・・・」とおっしゃり、現実に引き戻されていました。
そんな授業を受けると嫌が上でも記憶に残るもので、事実40年経っても覚えています。この流れからして、最後は次のように締めくくられたはずです。
平家の慌てぶりは尋常ではなく、弓や矢を取ることもなく、他人の馬に乗ったり、つながっている馬に乗ったりして、とても武士とは思えない体たらくで、散り散りになって海に向かって逃げて行ったのでした。
我先に船に乗り込んだことから、定員超過で沈没する船が続出、先に乗り込んだ者があとから乗ろうとする者を切りつけるなどしたため、海岸は赤く血に染まったことは言うまでもありません。これが前代未聞の奇襲「鵯越の逆落とし」であります。チャンチャン。
皆さんもそんな卓越した話術を持った先生に習うときっと歴史の授業が好きになると思いませんか?
話を戻します。こうして大打撃を受けた平家は瀬戸内海に追い込まれ、さらに西へ逃げ、勢いに乗る源氏はそれを追い、次のハイライトである屋島(現在の高松市のあたり)で再び戦い、そしてついに、1185年に壇ノ浦(本州と九州の間、関門海峡のあたり)で滅びるのです。
そういうことで、本校関係者は普通に「ひよどり越え」と呼んでいますが、そのような歴史*4を踏まえておくと、坂の名前一つでも味わい深いものがあるのではないかと思います。ただ、いつごろ誰があの坂を「ひよどり越え」と名付けたのか、人吉市史や本校の30周年記念誌などで調べましたが結局分かりませんでした。それどころか大変意外な事実を知りました。そのことについては、またいつかの機会に紹介します。
【校長】
*1 「ひよどり越え」を、測量サークルの生徒の皆さん5人に7月15日(土)に測量してもらっていました。それによると、一番下から一番上の段までの標高差は約40.136mで、全長153.41mでした。全部で365段の階段がありますから、1段当たり約11cmという計算になります。
一気に2~3段ずつ登れるところも多いので、高校生の足の実測値では登りに4分、下りで3分15秒といったところです。ただ、雨の日は滑りやすいので、安全のため1段1段踏みしめながら歩くのがいいのかもしれません。
*2 ひよどり(鵯)は、何で「卑」しい「鳥」なんていう字を書くのでしょう?ヒヨドリの生態が、字の成り立ちと関係があるのでしょうか?鳥の本で調べたところ、次のようにありました。
「鵯」の左の「卑」という字は、正確には「卑」の旧字体であり、古典語義で「低い」という意味を持ちます。「卑しい」の意味は「低い」から派生したもので、「背の低い鳥」という意味で「鵯」と書くのだそうです。
ひよどりは日本人には古くからの馴染みで、人に慣れるのも早く、平安時代の貴族たちが好んでペットにしていたとありました。ちなみに、英語ではbulbulと綴り「ブルブル」と可愛らしく発音する単語になります。
*3 「ひよどり越え」の清掃活動のまさにその最中、偶然にも下の駐車場に1184のナンバーをつけた車が止まっていました。そのこともこの記事を書こうというモチベーションをぐっと引き上げました。
*4 「鵯越えの戦い」の話は、困難に出会っても柔軟な発想で解決できるという教訓的な話でもあると思います。しかし、ある動物学の専門家が次のように語っています。「鹿と馬を同一と見るのは明らかな間違い。鹿は急斜面に対応できる身体をしているが馬はそんなことはない。そもそも蹄(ひづめ)の形が違う。重さも違う。まったく無理な話。鹿が通れるなら馬も通れるなどという話を信じたら大怪我をする。実際は鹿などが通る「ケモノ道」を見つけて、それを利用したに違いない・・・」と、にべもありません!「馬鹿」はこんなところに語源があるのかもしれないとか思ったところです。