校名決定
 学校名をどうするか、これは昭和57年3月15日の県議会で岩下議員が「特色ある高校としての名称をどう打ち出すか」と質問したが、この時点ではまだ教育庁内では議論されていなかったので、教育長の答弁はなかった。

1 建学の精神や教育方針を表すような校名  済々 尚絅
2 学校の所在を表す校名  熊本 熊本西
3 番号で表すような高校  第一 第二

  建学の精神や教育方針を表すような校名をつけたとしても、卒業してから出身校を名乗るのに、学校の所在地をいちいち説明しなければならないようでは困る。ナンバースクールは熊本西高校が新設されたことで終わったとみてよい。となれば、分類2の視点と熊本西の校名の関連から「熊本県立熊本北高等学校」とするのが一番適切ではないか。
  しかし、熊本高校や熊本西高校と混同される恐れもあるので、熊本北陵高校または熊本北稜高校という案も検討されたが、陵は大きい丘や天子の墓、稜はかど、すみあるいは二つの面が交わる線という意味がある。学校が北の大きな丘に建つわけでもないし、また北のすみの学校ととられても困る。結局校名は「熊本県立熊本北高等学校」と決定された。昭和57年9月、県議会で「熊本北高等学校という名称」についての質問に、外村教育長が理由や経緯を説明した。関係者の間では一番支持された校名であった。
初代校長 前田精二
校章への熱き思い
 校章は学校のシンボルである。ひと昔前まではほとんどの学校が制服着用を義務付けていて、帽章としても使われており、学校のシンボルとしての印象が強かったが、今は影が薄くなった感じがしないでもない。しかし、男女とも襟をきちんとつけ、熊本北高のシンボルとして誇れる校章を作りたいとは、教育庁で本校の「全体構想」策定に明け暮れていたからの思いであった。
 各学校の校章を見てみると、花や葉のデザインが多い。それで熊本県の県木である樟か、学校の所在地の楡の木にちなんで、樟や楡のデザインを考えてみたが、二つとも特徴がなく、いちいち説明しなくては何の木の葉か分からない。その点銀杏の葉は形がはっきりしていて、しかも末広がりで縁起がよい。また、熊本のシンボルである。美術担当指導主事梶原允先生に私の発想をお話したら、快くデザインして校章にしていただいた。その後専門家にもう一度検討して書いてもらったが、この二つはほとんど変わらない。しかし、我々の依頼によって後者の方は銀杏とペンをいぶし銀に、中央の北高は金文字に色を付けてもらったもので、これを正式の校章とした。なお、両者とも二枚の銀杏の葉が「高」のところで右を上にして重なっているので、左と右がシンメトリーにはなっていないところを注意して欲しい。
 さて、二枚の銀杏の葉は、末広がりで本校の将来の発展を表し、さらに本校の校訓の敬愛と進取を、上を向くペンは謙虚に学ぶ本校生の向学の姿勢を表していると意味づけた。中央には誰にでもよく分かるように「北高」の文字を金色でくっきり浮き出させた。実のところいろいろと銀杏のついている校章を調べてみたが、一番どっしりしていて力強いのは東大のものであった。そのイメージを本校にも使いたかったのである。大抵は単に「高」としている。せいぜい熊工が「工高」としているぐらいである。ここら当たりに本校校章の特色を出したつもりであるが果たしてみんなはどう思っているのだろう。
 開校後、ある先生が言った。「銀杏は東大。ペンは慶応。さて早稲田はどこにあるのかなあ」別の先生が答えた。「高の下の白黒模様は、実は稲の穂なんです」と。
初代校長 前田精二
校歌誕生
 創立10周年、本校の校歌を作曲した岩代浩一氏を招いて記念講演が行われた。氏は、北高から寄せられた詞をどうしたら生かすことができるかに腐心して曲が完成するまでの経緯を語った。この時、中山晋平の童謡「シャボン玉」の曲にふれて、作曲者がどんなに詞の心を重んじるかという話を引き合いに出している。「しゃぼん玉 消えた とばずに消えた うまれてすぐに こわれて消えた」この詞は実は、生まれるとはかなく消えた幼い娘に対する、作者野口雨情の鎮魂歌であるという話を、会場の者みな、粛として聴き入った。この折り、岩代氏はあわせて、校歌合唱で生徒に指導している。
  校歌の歌詞の原型は、時吉教諭(当時・元熊本西高等学校長)の作である。これを、「校歌制定委員会」(委員長 大仁田教諭)で数回手を入れて今の詞にまとめあげられたもので、作詞者が熊本北高等学校となっているのは、その謂である。
北高応援歌「ああ青春」
 創立十周年の記念事業の一環として、応援歌を創ろうということになり、生徒指導部が担当することになった。在校生・同窓会・育友会に「校歌が学校を象徴する『永遠の歌』であるとするならば、応援歌は、今、その時、我々の前で演じ・競う北高健児のさらなる闘志を奮い立たせるとともに、それを支える・讃える、母校『熊本北高』に集い・学ぶ者全てに、一体となっての気迫・感動を湧き立たせる『魂の歌』でもある。創立十周年を記念して、ともに肩組み、声高らかに歌える『応援歌』、心に遺る青春讃歌としての『応援歌』を募る。」という趣旨のもとに募集した。
 しかし、応援歌にふさわしい言葉としての『語句』が単語として単発的には出るものの、まとまった、凝縮された、1つの作品として完成させることは容易なことではなかった。
 応募してくれた生徒の歌詞が応援歌として十分にその体をなしていない訳ではなかったが、応募してくれた生徒達一人一人の言葉と心を生かすために、さらには、生徒会執行部諸君の『こんな言葉・こんな心』をという要望を生かすために、生徒指導部、国語科の職員で何回も検討・推敲を重ね、幾つかの候補作が出来たのが7月下旬であった。
 星子校長の助言もいただき最終的には作曲家のイメージに適う詞を校歌の作曲をお願いした岩代浩一先生に一任することとし、作曲は先生の御長男で東京芸術大学の大学院を卒業され、シルクロード国際管弦楽作曲コンクールで最優秀賞を獲得された岩代太郎氏にお願いすることとし、7月下旬原稿の歌詞を発送し作曲を依頼した。
 9月下旬、一枚の楽譜と一本のテープが届いた。私たち50代の者が描いていた”肩組み、バンカラ声を張り上げて!”の応援歌ではなく、『トレンディーなニューミュージック系』の感じがする、『曲と詞』が見事に一致した『青春讃歌』ともいえる応援歌『ああ青春』であった。 学校行事や対外試合等で、熊本北高生が、心を一つにし、意気を鼓舞し、さらなる感動と母校愛を育む応援歌の誕生であった。
 応援は、一人のリーダーの指導の元での一糸乱れぬ声と動きが要求される。その基本となるのが、リーダーの演技・演舞、即ち振り付けである。振り付けには、応援のメッカであり、シンボルでもある神宮球場での東京六大学のスタイルを基準に振り付けをした。同じ振り付け(スタイル)でリードするのではなく、詞と曲のイメージを動きに合わせるべく6つのスタイルを組み込んだ。
 さらに、当日の発表のために人選と歌唱指導を高木三朗・岩代和武両先生にお願いした。リーダーは、高校総体や各種の体育大会で部員や一般生徒を巧みに指導してくれた、門慶太郎君に、唯一の伴奏である太鼓は、体育祭で華麗な『バチさばき』を見せてくれた堀岡乗幸君に、そして合唱は、吉松仁・清水良宏・河端昇・小林孝昭・松村慎吾・三島公王・山辺文康・田中大輔・吉岡孝浩君達に、校旗持ちは前生徒会長・志水清剛君、紹介と進行は現生徒会長・齋藤大典君にお願いした。
 仮称練習・演技(振り付け)練習を別々に数回行い、式典前日のリハーサルで、初めて合同の練習をして当日の発表に臨んだ。
 今後この応援歌『ああ青春』が常に熊本北高に集う者に口ずさまれ、歌い継がれることを心から希う。
碑文挿話
 校訓碑の背面にはどのような文字を刻んだらよいかとあれこれない知恵を絞って、上のように漢文訓読調の文章に落ち着いたものの、これでは若い人には主旨が伝わりにくいのではないかと危ぶむ声もないではなかった。そこで、「晨ニ・・・足ラン」のところを口語調で言えばどうなるかというに、「早朝課外をしていると鴬の嘲りが聴かれていかにも閑かな感じである。夕方西空を眺めると折から真赤に染まった夕焼けを背景に、金峰山の山かげがひときわ美しく映し出されている。ここはいくらか世俗の世界から離れたところでもあり、ここで学ぶ生徒に純心純朴の気風を培うにはまことにふさわしい環境である。」というふうに長い文になってしまう。そこで「説明的に記すよりも漢文調のほうが余韻があってよかろう」(星子校長)ということになった。文中「聊か」とあるのは多少謙虚な気持を入れるためであり、「亦」を使ったのは、「他所にもこんなところがあるかも知れないが」という意味を含ませたものである。年号さえなければ明治の僧侶が書いたように見えるかも知れませぬ。
西本 満(当時:教諭)

 
                                     校訓碑                             校訓碑裏の碑文