平成26年11月7日金曜日、創立70周年記念式典が行われました。

 

 

 

 
たくさんの方々にご来場いただき、ありがとうございました。

70周年の歴史に感謝し、未来への飛躍を誓いました。

式典後は宇宙航空研究開発機構(JAXA)の森田泰弘教授による記念講演「イプシロンロケットの挑戦」がありました。
 
生徒達に夢を叶えるためには、まず夢を持つこと。夢を決めたら失敗を恐れず粘り強く挑戦し続けることなどをロケット開発を通して教えていただきました。

夜には記念祝賀会も行われ、たくさんの卒業生の方々にもご参加をいただきました。

 

 

70周年関係

70周年記念インタビュー:第1期生堤さん

今回保健委員会で八代工業高校70周年記念として昭和23年度卒業の堤 長壽さんに学生時代のお話を聞いてきました!

堤(つつみ) 長壽(ながとし)さん
昭和5年に産まれ、現在84歳の本校昭和23年度卒業生で、第一期卒業生でもあります。


八代工業高校設立 
昔は現在の中学校というものが無く、堤さんは小学校を卒業して八代商業に入ったそうです。堤さんが商業入学の1年後に八代工業は八代市立として設立されたのですが、八代工業が設立された大きな理由として、もともと工業の街として八代が栄えていたのに工業高校がなかったので、ぜひ地元に工業高校をつくって欲しいという地域の方々の大きな期待や願いなどもあり本校が設立されました。そして、八代商業から堤さんを含む104名の生徒が2年生として編入し、一年生も120名入学して機械科、電気科、工業化学科の3科生徒数224名で八代工業は始まったそうです。当初は校舎がなかったので松高小学校の旧校舎を借りて勉強していたそうですが、日本はその時戦争をしていて授業はほとんどなく軍事訓練ばかりで、銃剣術や槍の訓練、グライダーの練習を行っていたそうです。ほふく前進の練習の際は袖がほころぶので袖は地面につけずにやるそうなのですが、そうすると腕を擦るので大変だったそうです。それでも体育の成績に入るので真面目にやったそうですが、今よりもずっと過酷だったのだなと思いました。また、授業といっても農家の稲刈りの手伝いや、山を開墾してカラ芋を作ったりしていたそうです。先生から木銃でお尻をパチーンと叩かれたりもしたそうで、戦争の時代の厳しさを感じました。他にも、学校には馬がいたらしく農家出身の生徒達は休み時間にその馬を乗り回して遊んでいたと聞いてビックリしました。
 八代工業は創立二年目に校舎が造られたそうですが、粗末な校舎で何も無いので小学校から皆で机や椅子を歩いて運んだそうです。勉強をする時も教科書やノートが無かったので適当な紙に先生が黒板に書いたものを写したそうです。戦争中だったため英語が使えず、英語は日本語に直して使っていたため、変な日本語になっていたことを聞きました。設立当初は実習棟もなかったので、企業に訪れで実習を行っていたそうですが、そういった場面に地域の理解や協力が見受けられます。また家では夜になると停電がよく起こり、電気が点かないのでロウソクの灯りで勉強をしていたそうですが、今ではとても考えられない事で昔の大変さがわかりました。


堤さんの学生時代
体育祭について聞いてみるとやはり時代なのかほとんど体育祭などの行事は行われていなかったそうです。行事も田植えや稲刈りと、食糧が不足していた事がわかりました。
 堤さんの当時の楽しみについて聞いてみると食べる事だと言われました。当時は学校の周辺も田畑ばかりで目立つような建物はなかったそうで、生徒たちは徒歩や汽車を使って登校していたのですが、なかには鹿児島の出水市から通学している人もいたそうです。そんな、何もない1時間半の登校中の道すがら木になっているビワやグミ、柿などを採って食べていたり、生梅やグミを塩で揉んで食べていたそうです。普段の食事も米は週に1度食べられるかどうかで、基本的にはカラ芋やカボチャを水団にしてたべていたそうです。また、米を食べるときも粟や切干を足して節約していたりと、少しでもお腹を満たすよう工夫しながら食べていたそうです。他にも、友達と5~6人でコンニャクを買って食べた時に灰汁が苦くて吐き出した事もあるそうです。正月には民家の吊るし柿を盗って、学校に持って行って皆で食べたりもしたそうですが、そういった事があっても地域の方々は特に注意されなかったそうです。食べるものが少なく、みんながお腹を空かせていることがよくわかっていたから、厳しい時代の中でもお互い助け合ったり、人々のやさしさが感じられるお話でした。当時は部活が行われていたのか聞いてみたところ、部活は無かったけど、兵隊になるために運動はしたそうです。半強制的に振り分けられて、野球や剣道をしたそうですが、野球をするにしても、ボールやグローブはしっかりしたものが無く、剣道では打たれてミミズ腫れをよく作っていたと聞いて過酷だなと思いました。ですが、堤さんは学生時代について「きつかったけど楽しかった」と話されていていたのがとても印象的でした。
 堤さん達が3年の頃には学徒動員が起きて堤さんも昭和農産(現在のメルシャン)に行かれて、毎日のように空襲があったので、堤さんもある日倉庫で昼寝をしている時に空からの機銃の掃射をうけたことがあるそうです。また、裏山で遊んでいると、遠くの方にピカッと光るようなものを感じたので雲仙岳の方を見てみると、きのこ雲が見えたそうです。
 そんな激動の時代を生き延びきた堤さんは「孫やひ孫達に同じような目に遭って欲しくない」と、話されました。また「戦争は反対だが、しかし自分たちの国は自分たちで守るべき」とも言われました。そして八工の後輩達にメッセージや助言になるようなお話を残してくれました。まずは健康を大切にし、勉強や社交性、八代工業の校訓である「誠実」を守ること、できるだけ多くの資格を取っておくこと、といった仕事をするうえでとても大切な事だと思います


感想、まとめ
 戦争の真っただ中に設立された八代工業で、70周年という記念すべき年に生徒として八工にいることができて良かったと思います。また、そんな八工の一期生である堤さんからお話を聴くことが出来て本当によかったです。
 今回の堤さんのお話の中で、学生時代頑張った事として「学校を欠席しない事」と話されていました。「欠席をしないように」という話は今でも先生たちから言われていると思います。八工の伝統のようなものかもしれないですね。また、高校時代の経験のおかげで今でも働ける肉体や体力を作れたと話されていました。ちゃんと授業を受ける事は基本中の基本ですが、やはりしっかりとそういった場面で技術や経験を蓄えていく事が大切なのだと思いました。これからも何十年と八工が続くように私たちが頑張って、そして、これからの先の後輩たちにも八工の伝統や正しい姿勢というものを受け継いでいけたら良いなと思いました。